原正紀(はら まさのり)さん
Ellipse Consulting合同会社 代表社員
茨城県多賀郡十王町山部(現日立市十王町山部) 出身。幼少期を地元で過ごし、県立日立第一高等学校にてラグビーと出会う。明治大学卒業後に地元の銀行に入行し、以来20年に渡り営業職に従事。2021年にオリックス生命保険株式会社に転職し、3期連続で成績優秀者として表彰される(契約したお客様は230名以上)。現在も保険会社にて活躍しつつ、Ellipse Consulting合同会社を設立。
新卒で銀行に入行して以来、20年間にわたり営業に従事してきた原さん。今では生命保険会社のエースとして活躍しながら、自身の立ち上げた会社でも出会う人々に貢献するため日々奮闘しています。人が大好きで、おせっかい好き。フットワーク軽く地元・茨城を中心に飛び回る原さんですが、今に至るまでにさまざまな苦労や挫折を経験してきました。
将来に対して強い不安を抱く原さんを救ったのは、ラグビーと人とのつながりだったのです。
強烈な祖母との思い出。ラグビーとの出会い
――原さんはどのような子ども時代を過ごしたのですか?
私は茨城県多賀郡という田舎町でひとりっ子で育ちました。小さなころから身体は大きかったけれど、活発ではなく粘土遊びが好きでしたね。
両親は絵に書いたような「田舎の共働き夫婦」でした。親父は地元の大手企業に勤めているエンジニアで、おふくろは地元の農協勤務。ふたりとも非常に実直な性格で、控えめで人前に出るのは好きではありません。
一方で、祖母は真逆といえるような人でした。祖母は私の親父を含む4人の子どもをひとりで育てながら、地元でよろず屋を経営していました。お店ではジュースやお菓子、牛乳やお肉といった食品などを販売していて、店内では近所のおばあちゃんたちに昔の武勇伝を話していました(笑)。
私はよく、学校でケンカに負けて泣きながら下校していました。祖母は私が泣いている理由を聞くとお店の前でケンカ相手の子どもたちが来るのを待ち、「お前か!正紀を泣かせたのは!!」とすごい剣幕で怒っていました。
――すごくアグレッシブ…!
すごく怖かったけれど、ものすごくかわいがってくれましたね。
祖母はよく「“二足の草鞋は履けない”というが、二足の草鞋を履けないならいっそ三足重ねて履けばいい」と口にしていました。私が高校生の頃に亡くなってしまいましたが、バイタリティにあふれた商売人でした。
彼女の存在は、私の生き方にも大きな影響を与えていると思います。
私はというと、小学校低学年までは控えめな性格だったんですが、もともと身体が大きくて運動神経にも恵まれていたので、気づけばガキ大将的な存在になっていました(笑)。
中学校の3年間では野球部に所属していたんですが、同じチームに体格はほぼ同じだけれどまったく敵わない友人がいて。「野球をこのまま続けても、こいつには勝てない。他のスポーツをやろう」と思って見つけたのが、ラグビーだったんです。
――なぜラグビーをやりたいと思ったのでしょう?
1987年に行われた関東大学ラグビー対抗戦で、「雪の早明戦」という、後に伝説として語り継がれる試合があったんです。早稲田大学と明治大学による試合は一進一退の攻防が続き、両チームとも雪解け水でぬかるんでいたフィールドで、ギリギリの戦いを繰り広げました。
その様子を見て、「ラグビーかっこいい!やってみたい!」と思ったんです。そして、茨城県立日立第一高等学校(以下、日立一高)に進学してラグビー部に入部しました。全国大会に行けるほどの実力はありませんでしたが、県内ベスト4に入り関東大会に進出するなど、自分にとっても大きな自信につながる成績は収められました。
今でも忘れられない大学時代の後悔
――原さんは明治大学卒業ということですが、やはり「雪の早明戦」が進路選択の決め手だったのですか?
動機はそうですが、当時の進路希望は早稲田でした(笑)。ラグビーって予選が10月くらいまで続くので、勉強と部活をよほど上手に両立させないと、受験がすごく大変なんです。私もいろいろと頑張ったんですが、結局ダメで。早稲田大学合格は叶わず、明治大学に入学しました。
明治大学のラグビー部は名門中の名門で、一般入試組が入部するのは、すごく難しいんです。だから「明治に進学するのなら、ラグビーは引退かな」と思っていました。ですが、同じ高校出身の明治OBの先輩方が多数居たので、高校の監督からは「やる気があるなら推薦するよ」と声をかけていただきました。
――名門でラグビーをするチャンスが!
でも結局、すでに気持ちが切り替わっていた私は監督の誘いを断りました。そして、「キャンパスライフを謳歌したいから入りません」と監督に伝えたんです。それに、私が大学に進学したときはちょうどラグビーブームでもあって、明治大学の中だけで10数個のラグビーサークルがありました。そのうちの1チームに混ざって、ラグビー自体は続けました。
ただ、自分の中には「なぜあのとき、ラグビー部で挑戦しなかったんだろう」という後悔が残りました。活躍はできなかったと思いますが、それを知るすべはこの先一生ありません。
それ以来「この後悔は二度と味わいたくない。どうせ失敗するにしても、まずはチャレンジしよう」と思うようになりました。
銀行時代。ずっと胸にくすぶっていたモヤモヤ
――大学卒業後、原さんは地元・茨城の銀行に入行するのですよね。東京で働くといった選択は取らなかったのですか?
もちろん、東京での華やかな仕事に対する憧れもありました。ただ就職先選びは、親父の「地元に戻ってきて欲しい」という想いがかなり影響しました。地元に戻るとしたら、どの会社がいいだろう?そう考えたとき、はじめに頭に浮かんだのが金融業でした。
――ここまでのお話で、金融の世界に興味があったのは意外ですが、なぜその業界を選んだのですか?
金融は、企業の成長や地域の都市開発など、あらゆる仕事の起点になる存在だと思ったんです。融資をする過程で、いろいろな立場の人と会うチャンスもありそうだなと。そういったおぼろげな感覚から、銀行を選びました。
ただ、正直に言って銀行での仕事は、私が想像したものとは違う側面も多いものでした。
融資を実行するまでには様々な側面から審査する必要もあり、「この企業さんを支援したい」と思ってもなかなかうまくいかない事が多いです。またジョブローテーションの関係から2~3年で転勤もありますので、せっかく良いリレーションを構築したお客様とも比較的短期間でお別れしなければなりません。
支店や個人に与えられた目標を達成するために、お客様が望まないサービスをセールスしなくてはいけないときもありました。入行して早い時期から、こうした仕事のあり方にモヤモヤした想いを抱えていました。
それでも20年以上銀行で働き続けた背景には、さまざまな事情があります。地元の銀行ということで、同世代と比べて高い収入を得ていましたし、働いている間に家族もできました。異動を重ねる過程で、人間関係が良好だったりやりがいのあるプロジェクトに参加できたこともあったんです。
それに、長年働いているうちに、「自分たちはあくまで銀行という看板があるから活躍できるだけで、一歩外へ出たら何者でもなくなる」という恐怖心も芽生えていきました。
「自分にもできることがある」とラグビーが教えてくれた
――さまざまな事情から銀行に残り続けていた原さんが、転職を決断した理由はなんですか?
大きく2つあります。まずは、銀行で頑張る理由を見失ってしまったからです。実は、銀行で働いている間に少しメンタルの調子を崩してしまい、半年ほど休職したんです。幸い、治療がうまくいき、すっかり元気になり復職できました。
そこから約2年かけて、なんとか目標のポジションを目指して頑張ったんです。十分な成果も出せたと思いましたが、私の希望は叶いませんでした。その事実に直面して、「ここで頑張るのはもう辞めよう」と退職を決断しました。
ときは2019年で、ちょうど日本がラグビーワールドカップで盛り上がっていました。実は、ラグビーも転職を決断した理由のひとつなんです。
――というと?
ちょうどこの時期、母校の日立一高が県大会で準優勝に輝きました。私たちの世代よりももっと前、決勝進出は実に四半世紀ぶりの快挙でした。その姿を見て、私を含むOBは大いに沸き立ち「なんとか応援してあげたい」と思い試合や練習にも足を運んだんです。そこで知ったのは、母校のラグビー部の「文化断絶」でした。
――文化断絶…。
ラグビー部は全国大会出場5回を誇り、県内のルーツ校・古豪としてのある種のプライドを持っていたんです。しかし、今のラグビー部からは古豪としての誇りや強豪だったときの残り香は感じられませんでした。
その様子を見て、私たちは彼らをかわいそうに思ったんです。ラグビー部には偉大な先輩がたくさんいて、その系譜の中にみんなもいるんだ。そのことを、どうにかして伝えたいと思いました。
当時のラグビー部は、試合ができるギリギリの人数しか所属していませんでした。決勝戦に出場したときも、正式な部員はジャスト15名。他の部から助っ人を頼んでようやく出場できたんです。当時の監督に困っていることを聞くと「とにかく部員を増やしたい」と。
それならメディアに露出するのが一番!と思い、ベースボールマガジン社に企画を持ち込んだり、企業タイアップでユニフォームを制作したりしました。
――母校のPR活動に尽力したのですね。
静岡県袋井市にあるエコパスタジアムに、ワールドカップの試合を見に行くツアーを主催したこともあります。ワールドカップの試合は東京の秩父宮ラグビー場や埼玉県の熊谷ラグビー場が多く、他の会場ではなかなかチケットが売れない状況が続いていました。
そこで静岡県が、エコパスタジアムへ観戦に訪れた団体に対して、バスなどの運行費用を助成すると発表したんです。試しに声をかけたら、あっという間に中型バスがいっぱいになる人数の希望者が集まりました。
私はずっと、銀行の看板を背負っていない自分には何もできないと思い込んでいました。しかしフタを開けてみたら、自分ができることはたくさんあると気づいたんです。
――自分にもできることはあるという自信が、転職を後押ししたんですね。
転職後も、私は営業がやりたいと思っていました。そこで、前々から興味があった保険営業にチャレンジしようと思い、とある保険会社に入社したんです。しかし、ここで私が担当したのは営業ではなく採用リクルーティングでした。
保険業界はノルマが厳しく、人の出入りが激しいことで知られています。そのため、営業だけでなく採用も非常に重要な活動なんです。とはいえ、私は保険営業の準備はしていたものの、リクルート採用経験はまったくのゼロでした。
入社してそれなりに営業実績は残したものの、そのタイミングでコロナ禍になってしまって。新しい業界に飛び込もうという人は現れず、八方塞がりな状態になりました。
――入社早々に多くの想定外が原さんを襲ったのですね……。
しかもこのとき、タイミング悪く、所属支社でのパワハラや人間関係不信も重なり。一念発起で転職したはずが、1年も経たずに退職することとなりました。
次はどの業界に転職しよう。銀行時代に宅地建物取引士の資格を取っていたし、不動産営業とかやってみようかな。そう考えていたとき、以前交流があったオリックス生命保険株式会社の知人から「うちに来ないか?」と誘われたんです。
もう保険業界はこりごり!と思った私は、断ろうと思いました。ですが、自分はちゃんと保険営業に携わったわけじゃない、営業に挑戦する前に挫折したんだと思い返し、もう一度この業界でチャレンジしようと思いました。
その結果、これまでに230名以上のお客様にご契約いただき、3期連続で成績優秀者として表彰いただく機会を得ました。
――2度目の転職が大成功したのですね!
実はオリックス生命で、私の働き方を決定づける出来事がありました。私の知人で実家が山林地主の方がいまして、海外からの木材の輸入で木材の販売量が減少、これから実家の事業をどうしようか悩んでいました。
何かお手伝いできることがないか考えたとき、すぐ近くで林業を営んでいる会社の社長を思い出しました。この会社はバイオマス発電用燃料に用いる木質チップを製造していて、原材料となる木々を求めていたんです。
両者を引き合わせたところ、「木材を販売してくれたら私有地の山を整備する」という、お互いにとって最高の条件で契約を交わすことができました。私はふたりに感謝され、それがきっかけで大口の保険契約を獲得できたんです。
――まさに三方よしの商売を成立させたのですね。
このとき、「人と人を引き合わせれば、多くの人が幸せになれる。それが巡り巡って、自分にも返ってくる」と知りました。それ以来、多くの人々と出会い、多くの人々をつなぎ合わせることが私のライフワークとなったのです。
人とのつながりを広げて、地域や社会に貢献したい
――人と人をつなげる働き方が、原さんにとっての大きな指針なのですね。
私はオリックス生命で働くかたわら、Ellipse Consulting合同会社という会社も立ち上げました。そこでは営業・PR代行や不動産コンサル、財務コンサル、ビジネスマッチングなどさまざまなサービスを提供しています。
あるとき、私の活動を知る友人に「原さんは中小企業のマッチングアプリになろうとしているのですね」と言われたことがあります。私は、このキャッチーな言葉がとても気に入っています。
アイディアはあるけれど時間がない。アイディアを実行するマンパワーもない。そんな企業や社長のアイディアに必要なスペシャリストを紹介して、商圏拡大のお手伝いをするのが私の使命です。
――素敵な働き方ですね。原さんの今後の目標についてもおしえてください。
現在、私は茨城県を中心に東京、千葉、埼玉など関東地方で多くの人々とのネットワークを持っています。将来的には、その輪を仙台や名古屋、大阪とさらに広げていき、今よりもたくさんの人々と知り合いながら、みなさんの悩みに応えていきたいなと考えています。
ネットワークを広げるなかで、神奈川や千葉など特定の地域に深く根ざしている人と協力して、ひとつの組織体を形成するのが理想です。そのネットワークが広がれば広がるほど、地域や社会への貢献度も高まるように、今の活動を必死で継続していきたいと思います。
――頑張ってください!ちなみに、原さんが立ち上げた会社名の「Ellipse」とはどういう意味ですか?
フランス語で「楕円形」を意味します。会社のロゴは、楕円形のラグビーボールをモチーフとしたデザインにしました。
ラグビーは1チーム15名がフィールドに立ちますが、ポジションごとに求められる能力がまるで違います。私のように100kg以上で横に大きい選手たちも必要だし、190cm以上の縦に大きい選手も必要です。
さらに、デカくて走れるユーティリティプレイヤーや、小柄ですばしっこい選手、司令塔となる選手など。それぞれの選手が、適性に合ったポジションについて試合を戦い抜きます。ラグビーは、ある意味ものすごくダイバーシティにあふれたスポーツなんです。
――驚くほど多種多様な体格の選手が必要なのですね。
ポジションごとに異なるプロフェッショナルが求められるというのは、企業経営にも似ています。営業が得意な人、経理が得意な人、板金加工が得意な人。異なる才能を持つ人々が、お互いの得意を発揮して補完し合うことで、はじめてひとつの企業が成り立つわけですから。
そうやって、異なる才能が集まって組織が機能するように、人々をつなぎ合わせるハブとなるのが私の役目だと思っています。
そこに気づかせてくれたのも、チャレンジする大切さを教えてくれたのもラグビーでした。少しでもラグビーに恩を返せるように、ライフワークとしてラグビーに関する活動にも取り組み続けたいなと思っています。