「もっとチャレンジしないとダメだ」 中途半端だった自分と決別し出会った一生の仕事

野添匠(のぞえ たくみ)さん

庭師/盆栽職人

1991年、青森県八戸市生まれ八戸市在住。大学在学時にシンガポール、インドネシア、マレーシアに行ったことで海外への憧れを抱く。2017年から2年半、カナダに移り造園に出会う。2020年から八戸市にて庭師/盆栽職人として活動。盆栽ブランド「ittai funi」を立ち上げ、日本各地で展示をおこなっている。

「これだ」と思えばすぐ行動するという野添さん。後悔もたくさんしてきたといいますが、その後悔を何度でもはね返すバイタリティがあります。サッカーに打ち込んだ日々、やり切れなかった日々、造園や盆栽に熱中するいま、そして未来。その瞬間瞬間で野添さんが抱いていた思いを語ってくれました。

腐りかけながらも約15年間続けたサッカー

−−野添さんは小学校から大学までサッカーを続けていたとのこと。サッカーをはじめたきっかけを教えてください。

小学生のときは基本、外で遊んでいましたね。家の近くに工場の資材置き場みたいな場所があったので、いつもそこで友達と遊んでいました。サッカーを始めたのは小学校3年生です。母親の友達によく遊んでもらっていて、そのグループの中でサッカーしている人がいたので「俺もサッカーやりたい」と母親に言ったんです。そこからですね、もう大学卒業まではサッカー中心の生活でした。結果的にはプロになるなんていうレベルではなかったんですけど、約15年間サッカーを続けたことは人生を形づくるうえでとても重要な経験だったと思います。

−−サッカー漬けの毎日だったのですね。

まあ、実際は自分の将来に迷ったことは何度もありましたよ。でも結局はサッカーに戻ってくる。そんな学生時代でしたね。中学時代のある日、昼休みに野球部の友達とキャッチボールしたら、ボールがミットに収まる音がものすごく気持ち良く思えた瞬間があったんですよ。家に帰ってもグローブにボールを打ちつけて、母親に怒られるまでずっと(笑)。その音が好きすぎて「高校入ったら野球やろっかな」ぐらい思ったときもありました。サッカー推薦で高校に行く選択肢もあったんですけど、俺そのときグローブはめてたし、就職のことも少し考えた結果、地元の工業高校に進学にしました。高校でもサッカーは続けるんですけど、実はサッカーを基準に選んだわけではないんです。高校生っぽい遊びにも憧れてたのかもしれないっすね。

−−高校では就職を視野に入れた生活を送っていたのですか?

そうですね。サッカーは一生懸命続けていたものの、高校を卒業したら就職するんだろうなと自分でも思っていました。高校2年生までは親にも「高校卒業したら地元の工場で働くから」と宣言していたんですけど、本当のところは「仕事続けられんのかな」と不安だったんですよね。そういうなかで高校3年生になったとき、地元の大学からサッカー推薦の話が来たんですよ。そこでいきなりハンドル切っちゃって「俺やっぱあと4年間サッカーやるわ」って決めたんです。もちろん親からは反対されましたよ。「あんた勝手なこと言うなよ」って。でも結局は押し切って、地元の大学にサッカー推薦で入学しました。

−−大学生活はどのような4年間でしたか?

いろんなことに対して中途半端だったな…と思う4年間でしたね。1年生のときは熱心にサッカーを続けていましたよ。サッカー推薦で入学したわけですから、連休はもちろん練習や遠征が入り、アルバイトは禁止。でも大学生って自由だし誘惑も多いじゃないですか。それで2年生になると「もっと遊びたい」という誘惑に負けてしまって、こっそりカラオケ屋でアルバイト始めちゃったんですよ。なんとなく部活にも身が入らない時期があったし後先考えずに行動しちゃうから、アルバイト先で「お盆も働ける?」とか聞かれて、遠征あるのに「働けますよ」とか答えちゃって。ただ自分が悪いだけなんですけど、どんどん抜き差しならない状況に追い詰められていきましたね。退部・退学の一歩手前みたいな状態にもなったんですけど、なんとかサッカーを辞めずに中途半端を貫き通した4年間でした。

「人生を変えた」2つの転換点。そして海外へ

−−なんとか続けたサッカー。どのように自分を鼓舞したのですか?

大学では転換点といえる出来事が2つあります。ひとつめは2年生のとき。自分自身が腐りかけちゃって、でも抜き差しならない状況になっている最中ですね。サッカーへの情熱は消えていないはずなんだけど、なんかがんばれない。変な感じがずっとあって「サッカー以外に本気でぶち当たれるものがないと俺はダメかもしれない。何か変えなきゃまずい」と感じていました。それで思いついたのが、東京から八戸まで歩いて帰ることでした(笑)。

−−東京から八戸まで徒歩ですか! 

アイディアとしては「なんじゃそれ」って感じですよね。1日40kmくらい歩いて、寝泊まりはテント。途中でやめたくなったことは何度もあったし、これだけでもすごく長い話になるんですけど、「人生変わったな」という瞬間が訪れたのは、岩手県を歩いていたときのことです。その日はすごく調子が良く、いつもよりペースが速くてどんどん進んでいました。でも、途中で山の中に入って「これ抜け出せないかも。やばい」と思ったんです。それでも突き進んでいったとき、急に見覚えのある景色が見えたんです。「俺、この景色知ってる。いつもスノボ行くときに寄るミニストップだ!」って。そのとき、サッカーに打ち込んでいたときの思いとか、腐りはじめたときの思いとか、いろいろ浮かんできて、でも「俺、やりゃあできんじゃん」って感じたんですよ。最終的に11日間かけて八戸まで帰って来られて、失いかけていた自信を取り戻せたんです。

−−海外志向になったのはどのようなきっかけがあったのですか?

大学4年生のとき、米軍基地の人がよく来るクラブでバーテンダーとして働いていたんです。俺は英語話せなかったんですけど、お酒の名前を聞いてドリンク出すだけのやり取りくらいはできました。それで仕事に慣れてくると、「俺、海外行っても英語話せるんじゃないか?」っていう自信が芽生えてきたんです。自信っていうか、ただの勘違いなんですけど(笑)。そこで2週間、シンガポールとインドネシア、それからマレーシアに行きました。ホテルは予約していたんですけど、それ以外はろくに調べずノープランで。たったの2週間だったんですけど、とにかくすべてが新鮮で本当に刺激的でした。「俺は知らないことばかりだ」って本気で思ったんですけど、ここでも「人生変わったな」とも感じましたね。ちなみに英語は全然話せなくて、やっぱり勘違いでした(笑)。でも、そこで海外に魅了されてしまって、当時すでに決まっていた就職先も辞退しようかなと悩むくらいでした。結局は辞退せず入社するんですけど、「いつか絶対、海外に住む」という目標が生まれました。

−−大学卒業からカナダに行くまでの約2年間はどのような生活を送っていたのですか?

大学卒業後1年半は、大学時代に通っていたスイミングスクールのトレーナーをしていました。だけど働いている間も「海外に行きたい」という思いを捨てきれず、結局仕事をやめて2ヶ月間フィリピンに留学しました。ただ、フィリピンで遊びすぎてお金が一気になくなって、日本に帰ってきてからが大変でしたね。口座が凍結されていたり、住んでいた東京の家に住めなくなってホームレスになったり、居候した家も追い出されたり、お金を稼ぐために昼夜問わず働いたり…。フィリピンから帰ったあとの半年くらいは忙しすぎてあんまり記憶がないですね(笑)。でも、おかげでお金にも時間にも少し余裕が出てくると、「俺このままで良いんだっけ」って考えるようになったんですよ。それで今度はワーキングホリデーでビザ取ってカナダに行くことを決意しました。

フィリピンのバナウェにて

−−何か物足りなさを感じていたと。そこにはどんな背景があったのでしょうか?

思い返してみると「その瞬間瞬間で何か打ち込めるものがある」っていう状況が好きだし、逆にそれがないと満足しない性格なんですよ。だから学生時代はサッカーに打ち込んだり、それがなくなったら旅に出てみたりして。フィリピンから東京に帰ってきたら猛烈に働いて、払うものを全部払い手元にお金が残るようになりました。飲みに行ったり好きな服を買ったりして自由に遊べるようになったんですけど、なんか心が満たされないというか。「これじゃねえよな。でも、じゃあ何がしたいだろう」と立ち止まったとき、もとはと言えば海外に行きたくて仕事を辞めたんだよなって思い出したんです。「やっぱ海外行かないとダメだ。もっとチャレンジしないとダメだ」という気持ちが強くなって、地元の先輩に相談して紹介されたのがカナダでのワーキングホリデーでした。

一生をかけて取り組むと決めた造園との出会い

−−カナダでの仕事は順調でしたか?

最初は日本人スタッフの多い居酒屋で働いたのですが、慣れない環境なうえ会話はほとんど英語。カナダでは必死に英語を勉強していましたが当時の英語力はまだまだで、思うように周りとコミュニケーションが取れずにいましたね。そんなある日、大きなオーダーミスをしてしまったんです。たしかお客さんは「うどん」を頼んだのに、なぜか俺が「うなぎ」でオーダーを通してしまって。いつもなら絶対しないようなミスが運悪く出た結果、それがマネージャーの逆鱗にふれてめちゃめちゃ怒られたんです。その日以来、マネージャーとあまり会話ができず居心地も悪くなってしまい、どうしようかなと思っていたときに、造園の仕事の話が来るわけです。

−−それがトロントの造園会社「Hiro Landscaping」ですね。

そうです。実は最初に先輩から紹介してもらったのが「Hiro Landscaping」という会社で、その代表であるヒロさんには、俺が日本にいたときにメッセージを送っているんです。当時は「Hiro Landscaping」での人員の空きがなかったので居酒屋で働くことになったという背景があります。でも、居酒屋では楽しく働けなくなってしまった。まさにそのタイミングで、ヒロさんから「いま空きが出たけどどう?」と連絡をもらったんですよ。それから平日は造園、週末は居酒屋というダブルワークが始まりました。

野添さん(左)と「Hiro Landscaping」のヒロさん(右)

−−もともと造園に興味があったのですか?

いや、全然なかったです(笑)。基本的に疑いを持たないので、信頼できる先輩が言うなら間違いないだろうって、紹介されるがままに連絡したという感じです。だから正直、造園には1ミリも興味なかったんですよ。でも、ヒロさんに出会ってからどんどん造園の魅力に引き込まれていきました。あの人がいなかったら間違いなく造園なんてやっていないでしょうね。

−−造園の魅力に気づいた、印象的な出来事を教えてください。

決定的な出来事が、ある家の庭をアレンジしたときのことです。その家はものすごく広いうえ大きな天然石をたくさん使っていました。敷地の一部は通路がせまいため石を運ぶのは手作業。技術的にも体力的にもとても難しい仕事でした。本当にきつくて、作業中に「こんなの無理じゃね?」って気持ちがよぎったくらいです。でも、みんなボロボロになりながらやり遂げたとき、仕事中はあまり笑顔を見せないヒロさんが、子どもみたいに無邪気な笑顔を見せたんですよ。ヒロさんはまさにバッキバキの職人で、ものづくりに対してはめちゃめちゃ厳しくて俺はいつも怒られていました。そのヒロさんが心の底から喜んでいる様子で、珍しく「匠、ありがとう」なんて言われて握手までしたんですよ。そのときに「これだ。これを一生の仕事にしよう」って思ったんです。

トロントにて仕事中の野添さん

−−野添さんにとって人生が変わるような出来事は何回かありましたが、ヒロさんや造園との出会いは、これまでの出来事と何が違っていたのでしょうか?

大学時代に八戸にいたときは「俺はここにいるべきじゃない。東京に行ったら何か起こるはずだ」と思って東京に行ったけど期待したことは何も起こらなかったし、クラブで働いていたときも、周りには自分でビジネスをやって大きなチャレンジをしている人が間近にいたけど当時の自分にはピンときていませんでした。でも、ヒロさんと働き始めたときは、ちょうど自分自身が「腹を決めて何かやりたい」と考えていたころでもありました。そういうタイミングだったからこそ、「仕事って、ものづくりってこんなにかっこいいんだ」って思えたんでしょうね。「自分がおもしろいと思うことをしたい」と本気で考えたときに、場所はあまり関係なくて、やっぱり自分次第なんだなと思います。

カナダにて、友人とのパーティに参加

帰郷、そして次のステージへ

−−現在は八戸にて造園だけでなく盆栽作りにも取り組んでいるとのこと。盆栽作りに取り組むきっかけを教えてください。

カナダの造園で働いているときに同僚が「盆栽ってかっこいいじゃん」と言ってきたのが最初のきっかけです。そのとき改めて日本の盆栽をカナダから見てみると、「超やばい。盆栽ってかっこいいんだ」ということに初めてはっとさせられました。その日から「日本に帰ったらすぐ盆栽始めよう」と考えていました。盆栽の魅力については、最初は単に見た目のかっこよさが魅力で、形やたたずまいに芸術性を感じていました。しかし、いざ盆栽の勉強を始めると、その技法の奥深さに驚かされましたね。千年前に生み出された技法がいまでも受け継がれているなんて、すごくおもしろいなと。盆栽が作られる文化的な背景も含めて、もっともっと知りたいと思いました。

盆栽作り中の野添さん

−−今後やりたいことや作りたいものはありますか?

今後は盆栽やアート領域にも挑戦していきたいと思いつつ、やっぱり造園を中心にやっていきたいですね。なんといっても、ヒロさんと取り組んだ仕事のなかにものづくりの本質があったなと思うんです。作り手自身が深く感動してプロセス自体が楽しくてしょうがない、そんな仕事を続けていきたいですね。そしてその拠点はやっぱり、生まれ故郷である八戸が良いと思っています。

−−八戸ではどのような活動をしようと考えていますか?

日本の造園は農業から発生していることが多いんですけど、八戸は海から開けた街なんです。だから、海からのイメージとか、八戸の文化的なものを落とし込みながら、新しい庭のカルチャーを発信していきたいと思っています。造園の仕事をはじめたのはカナダだったわけですが、その経験を持ち帰り新たな視点で八戸という街をみると、八戸は自然豊かで大きな可能性のある場所だと感じるんです。自分の着眼点は周りと違うと実感しているので、改めて気づいた八戸の良さや違和感をひとつずつ形にして新しいものを生み出していきたいですね。

これまでの作品とともに

−−最後に、また海外に行きたいという思いはありますか?

実は八戸に帰ってくるのはすごく迷ったんですよ。というのも、カナダでのビザの期限が近づいていたときに、ヒロさんから「君がまだカナダにいたいんだったらビザのサポートをするけど、そのときは永住する覚悟でいてくれ」と、本当に難しい選択を迫られたときがあったんです。ものすごく悩んだ結果、日本に帰るという決断を下したんですけど、そのときに「絶対にまた海外で庭を作ってやる」と決意しました。それがどういう形なのかは全然イメージできませんが、とにかくもう一度海外で庭を作る。できれば呼ばれたいですけど(笑)。頭の中にはやりたいことばかり浮かんで、これからも楽しみでしょうがないっすね。

荒井貴彦

ビジネス分野を中心にライフスタイル系、医療系などの記事を執筆。主な執筆先は「日経クロストレンド」「LIMIA」「Let’s Enjoy東京」。ビジネス分野では記事の執筆だけでなく資金調達サポートも行う。